そばの日は灘のお酒とそばで災厄落としを

そばの日は灘のお酒とそばで災厄落としを

毎月最終日はそばの日です。

日本麺業団体連合会が制定した記念日で、江戸の商人が毎月月末になると、縁起物としてお蕎麦を食べていたことに由来します。

年越しそばも同様で、その月にあった苦労や災厄を、引き継がないように切り捨てる意味合いがあり、新しい月を気持ちよく迎えるためにお蕎麦を食べます。

蕎麦屋は庶民の憩いの場

お酒が好きな人、特に日本酒が好きな人は、「蕎麦屋酒」に憧れるのではないでしょうか。

蕎麦が茹で上がるまでの時間に、ちょっとしたつまみと日本酒をいただき、最後に蕎麦を手繰る。

こうした習慣は江戸時代に始まったものといわれています。

江戸時代は、いわゆる居酒屋がなかったといわれ、蕎麦屋のようにさまざまな料理を出す店は、庶民の憩いの場として多くの人に利用されていたといわれています。

長い時を経ても、蕎麦屋酒は江戸の粋として多くの人にとらえられ、お酒好きの心を虜にしています。

蕎麦屋で飲まれていたお酒はどんなものか

江戸時代に蕎麦屋で飲まれていたお酒はどんなものだったでしょうか。

江戸の周辺で造られるお酒は、まだ醸造技術が未熟だったため、どぶろくのような濁り酒だったといわれています。

これに対し、食の都であった上方のお酒は透き通った「清酒」。

これを上方から来る「下り酒」と呼んでもてはやし、関東のお酒は「下らない酒」とこき下ろしたのだそうです。

下り酒と呼ばれるお酒の産地の中でも、灘の酒はとりわけて好まれ、江戸時代後期の江戸市中で飲まれる酒の8割以上が灘の酒だったといわれるほどといいます。

灘のお酒が発展した理由

灘の酒を生む兵庫県は、現在でも日本酒の生産量が日本一で、「灘五郷」と呼ばれる地域がその大半のお酒を生み出すことで知られています。

灘五郷は、昔の地名で言う西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷の総称で、日本人なら誰もが知るような、日本酒のブランドの本拠地がある地域でもあります。

江戸時代より前は、奈良や伏見、伊丹といった地域の方がお酒造りが盛んだったといわれています。

なぜ灘のお酒が発展したかというと、それは江戸へとお酒を送る際に、陸路を経る必要がなかったため。

灘のある沿岸部は海運が盛んで、当時から交易が行われている場所。

そこからお酒を船に乗せて江戸に運ぶため、奈良や伏見のように船まで運ぶコストがかからなかったのです。

「菊正宗 嘉宝蔵 灘の生一本・生もと純米 720ml」

なぜ灘のお酒が一番良いといわれたのか

灘のお酒が発展したのは、お酒を運んだ江戸で好まれ、たくさん売れるようになったから、ということも挙げられるわけですが、なぜそこまで江戸で好まれたのでしょうか。

その秘密は「灘の宮水」にあります。

宮水は1840年に櫻正宗によって発見され、他の酒蔵も、宮水の出る土地にこぞって井戸を掘りました。

宮水と他の仕込み水の違いは鉄分。宮水には鉄分が全く含まれていないのです。

日本酒は仕込んでから時間が経つと、鉄分の影響で変色し、風味が悪くなるのですが、鉄分の含まれない宮水を使用した日本酒は、夏を越しても味が落ちませんでした。

そして、秋を超えるとさらに一段と美味しくなる「秋晴れ」と呼ばれ、江戸の庶民を虜にしたのです。

灘は生産量の多い大きなメーカーが多いため、大量生産のお酒のイメージが強いかもしれませんが、昔ながらの製法を大切にしながら、新たな挑戦をしている酒蔵も多いといえます。

伝統を守りつつ、縛られない姿勢が、今も昔と変わらずに愛される、ロングセラーのお酒を生む原動力になっているのかもしれません。

蕎麦の日は、軽い肴をつまみながら、江戸の昔に親しまれたお酒のことを考えるのも乙なのではないでしょうか。

締めには蕎麦を忘れずに食べて、今月の苦労や災厄を切り捨てたいですね。

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